考える人 2015年冬号

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目次

彼女はむしろ自分に厳しかったのです。いろんなことを完璧にできない自分に怒っていた。 か、いっかは を聞いてもわからない須賀さんの厳しさは、お に聖フランチェスコの僧院を訪れて、ひざまずい たりした。スペイン内戦やパリ陥落の際のヴェイ そらく戦争と関係があったかもしれない。彼女は 松山面倒くさいんですよね。擬古文ですから。 厳しい体験があったので、性格にもやや厳しいと ュの行動、工場で働いたことなどに対しては、こん でも、外の史伝一一一部作のなかでは『伊沢蘭軒』 ころがあった。 な人がいたのかと。日本では戦争に異議をとなえ なんかとくらべると、はるかに読みやすい た人はほとんどいなかったし。となえようとして 松山ニュアンスは違うかもしれませんが、僕は 本に書きましたけれど、須賀さんには父への思 須賀さんに怒られた記憶はまったくないんです。 いというのがかならずあって、その上で澀江抽斎 も弾圧されてしまったということなんですけれど アミトラーノふふふ、それはうらやましい ナタリアにしても、レジスタンス活動で捕えら の四番目の妻である五百さんを知って、心の灯と 松山ともかく気が短くて、編集者は泣かされた いうのか、自分がいかに生きるかに大きな影響を れ獄死したご ~ 学王レオーネ・ギンズプルグがほん とに抵抗したものはなんだったんだろうナタリ んじゃないかなあ。僕にも、担当を変えていいカ 受けたということを作品に書いている。そのとき はナタリア・ギンズプルグと、澀江五百。大学院 アは息子のカルロたちと一緒に、流刑地までい な、どうしても気に入らないと言うんですね。僕 にいた頃には、シモーヌ・ヴェイユ。その一二人の わけですよ。それでいながら、それで終わらずに、 が会ったときは六十過ぎていましたから、たぶん、 立派な、あれだけのものをのこしている。 彼女のなかでやるべきことは決まっていたんです。 影響はやはり大きい。自己主張する女性像として。 やつばり須賀さんにとって驚きだったと思うし、 それを全部考えたうえで、やっている。そのこと 日本では、戦後とはいえ男女差別も残っていたし、 が理解されないと、イライラしてしまうんですね。 就職も困難だったから、彼女にとっては非常に大自分の進むべき道をひとっ拓いてくれた人だった のじゃないかなと思うんです。イタリアの人も同 アミトラーノさん、この前、そんな話をされて 事なことだったと思うんですね。また、あの人、 じでしよう、戦時、戦後をどう生きたかというの いましたね。何かのひょうしに突然、須賀さんが 思いつめたら突っ走る気質でしたから。 怒り出して、翌日電話がかかってきてゴメンって はとても大きい須賀さんも、戦時中、あるいは アミトラーノ須賀さんの今回の展覧会のタイト 謝ってきた。 ルが「須賀敦子の世界展」ですが、彼女のなかに 戦後の物がない時代を生きてきた。そのなかで、 アミトラーノはい、そんなこともありました。 はさまざまな世界がありましたね。たとえばフラ 指標になるような女性を何人か見つけた。それは とっても大きなことだったなあと 松山それは何でした ? ンスの世界。彼女はフランス語もうまかった。フ アミトラーノそんなこと、人にしゃべったら須 アミトラーノそうですね。私は須賀さんと世代 ランス文学をよく読み、とくにシモ 1 メ・ヴェイ かちがうので、いま田 5 えばいろいろなことが、わ ュに興味が強くあったし。 賀さんに怒られますよ ( 笑 ) 。ほんとは彼女がな かっていなかったと思います。たとえば戦争の影 ぜ怒ったか憶えてないんですけど、謝った言葉は 松山ヴェイユは結局カトリックには入信しなか 記意にあります ったけど、 いくら戦争の話 あなたを怒鳴ったのは私じ 須賀さんはヴェイユを知って、同じよう 響。私は五〇年代生まれなので、 100

そうして美叩を主題とした「鷹」が好きという須 賀さんの思いは何だったのか、とつい考えてしま います。戦後のカトリックや社会主義が、バチカ ンやソ連に追随したのに違和感が強かったのか ハリ 1 ゼさんは、ほんとうは谷崎に会いたカ たみたいですね。けれど谷崎は亡くなっていた。 それで石川淳ということになったけれど、石川さ ん、そうい - フ人んろ - フと田フけど、黙っちゃった。 アミトラーノそうですね。パリーゼさんは京都 から来たので、約東に一一時間ほど遅れて到着され て、そういう問題もありました。 松山ああ、なるほど。須賀さんもそんなことを 言っていたな。川端さんにも、ノ 1 ベル賞をとっ たあと、ロ 1 マ郊外で会ったと。レストランで食 事をともにしたはずです。 アミトラーノ『山の音』の翻訳ノ 1 トに書いて いますね。とてもきれいな文章だと思います。 松山アミトラ 1 ノさんが慶應に留学されて、市 谷にある上智大学の須賀さんの研究室に行ったと きのことが、何月何日まで日記に書いてあったそ うですね。会うなり文学の話が弾んで研究室では 終わらなくて、「トレヴィの泉ーとかいう : アミトラーノはい。いまはないイタリアンレス トランで、食事をご一緒しました。 松山そこでいろんなお話しをされた。それは、 やはり、谷崎や川端の ? ア、、、ト一フーノ いえ、源氏物語です。私はア 1 サ ・ウェイリーの英訳で読んだので、その話をし ました。須賀さんも、大学の授業の準備のために 「源氏」をちょうど読み直されたそうです。 松山ウェイリ 1 訳は、日本語の源氏物語よりわ かりやすい アミトラーノそうですね。日本人はみんなそう 言いますけれど。 松山須賀さんが、なぜ日本の小学校で日本の古 典を教えないのかと言ったことがあるんです。イ タリアでは子どものときからダンテを学ぶと。ど うして日本では子どものときに源氏を学ばないの かそれをやれば、ずいぶん日本の古典に親しむ んじゃないかと。それが記憶にあります アミトラーノ須賀さんは『神曲』を深く読み込 んでいらっしやった。あるとき、ダンテの『新 生』という乍品についてり合ったことがありま す。私は『神曲』は学校で学びましたが、ある日、 薪生』を本屋で見つけて読んで、とても気に入 りました。須賀さんも『新生』は大好きだったの で、一一人で盛り上がりました。最後は『神曲』の 欠点を見つけて、精神の素晴らしさをひどく大仰 に一言っていると 松山ああ、そうですか『新生』は読んでないな。 アミト一フーノいまになれば、ちょっとは、すかし いけれど。『新生』は現代小説のようなところか あって、『神曲』はもっと多様性のある作品。い ろんな方向があるけれど、『新生』はとてもコン ハクトで素晴らしい、という話でした。 松山須賀さんはじつは半分ちかく『神曲』を訳 してるんですよ。僕が須賀さんに、ダンテのあれ、 訳さないんですかと聞いたら、トンデモナイと言 ってたのですがね ( 笑 ) 。神奈川近代文学館の回 顧展「須賀敦子の世界展ーに、下訳ノートが展示 されていました。当時学生だった藤谷道夫さんた ちと勉強会をしていて、そのときに、藤谷さんと も半分まで訳されたと聞いています。 父という存在 アミトラーノ松山さんにうかカ ( たいことがあ ります。『須賀敦子の方へ』のなかで、須賀さん のお父さんの挿話が、とても重要な要素としてた びたび登場しますね。須賀さんはいっか、自身の 人生のなかの父親の重要さが、わかるようになっ たのだと思います。若いときはそれほどに感じな かったけれど、年をとったら、やはりいろんな影 響を受けていたと。そのことが松山さんの本のな 々 人 かで、とてもよく描かれていると思います。 松山そうですかありがとうございます。外会 出 の『澀江抽斎』からはじめたんですけれど 本 アミトラーノ若いときはあまり気に入らなかっ 愛 の たそうですね。 子 松山まあ、ちゃんと読めなかったんだと思うん 賀 須 ですけれど。再読したら非常に面白かった。 談 対 アミトラーノ私は、まだ読む勇気がないのです 9 9

イタリアでダンテを学ぶように、なぜ日本では子どものときに源氏を学ばないのか。 ってる作品だけ翻訳したわけじゃないですから。 と、はじめてその翻訳を読んだとき、ナタリア・ アミトラーノ中島敦は例外ですけど。 イタリア人、あるいはヨ 1 ロッパ人にとってわか 松山石川淳の「紫苑物語」も例外といえば例外ギンズブルグに似た印象があったそうです。 りやすいイロ ( 佃力ということをすっと考えなが 松山谷崎とギンズ。フルグは、どう似ているので ですけれど、これも戦いの話です。そういうこと ら選んでいったのだろうと思うんです。 はあまりお感じになりませんでしたか ? アミトラーノきっと、そうですね。その短篇を アミトラーノギンズブルグは『細雪』の谷崎の アミトラーノそのときは気がっかなかったけれ 選んだ理由についてはあまり話さなかったけれど、 ように、日常生活の流れを描くのが得意でした。 いま田 5 い返せばそうですね。そう思います。 川の流れ 中島敦と石川淳の作品のことは、私たちの会話一 大した事件もなしに日々が続いてい 松山イタリアの王国樹立と日本の明治維新は十 何回も出ました。 のような動きを、谷崎もギンズブルグもうまく描 九世紀半ばと同時期ですし、共に第一一次世界大戦 リ 1 セとい - フィタ そのあと、ゴッフレ 1 ド・ きました。そして、ふと気がつくと、このふたり の敗戦国で、イタリア人にもわかるような選択を ノリ 1 ゼは、この リアの作家が日本にきました。。、 の小説のなかで、日常生活がいつのまにか人生そ したんだろうと、目次を見たときに感じたんです 本で「紫苑物語」を読んで非常に気に入り、石川 のものに変貌しているのに気づきます。つまり、 よ。谷崎が二つ入っているのかな。 淳に会いたいと言って、須賀さんの紹介で実現し つまらない現実がなにかもっと大規模なものにな アミトラーノ「刺青」と「夢の浮橋」。谷崎だけ っているんです。 たのですが、この二人の対話はあまりうまくいカ 一一つ。どうしてでしようね。 なかったみたい 松山須賀さんがあれほどナタリア・ギンズ。フル 松山やつばり好きだったんでしよう。須賀さん、 松山それ、僕も聞いたことがあります。須賀さ グが好きだったというのもわかるような気がしま 『瘋癲老人日起まで訳している。 んとどじよう鍋を食べにいく車のなかで、石川淳 す。やつばり影響されたんでしようね アミトラーノたぶん、須賀さんの谷崎翻訳のな なら、どれが好きか訊いた。訳してる「紫苑物 アミトラーノそう思います。『武州公秘話』に かでいちばん素晴らしいのは『武州公秘話』。こ 一 = 巴かと思ったら、それではなくへンな話、なん はすこしアンテイミスト ( 親密 ) なところがあっ れはほんと , フに聿糸主卩らし、 ていったかなあ。革ム叩とか明日起こることが言事 て、ギンズブルグの『ある家族の会話』とか『マ 松山それはど一フい - フところが ? にはる新とカ、そ , フい - フ ンゾ 1 ニ家の人々』とかの、ああいう雰囲気が漂 アミトラーノ原作の素晴らしさは一言うまでもあ アミトラーノおばえていません。 っていたみたい。 それはガルポリさんの意見です りませんが、須賀さんの翻訳はイタリア語の細や 松山ちょっと不思議な話で、最後に主人公が抜 けど、私も賛成。 かなニュアンスを実にうまく使っています。批評 き手をきって運河を渡ってゆくんですけどね。あ 松山よく選んだものだと咸皎します。これを選 家のチェ 1 ザレ・ガルポリさんは、須賀さんの翻 あ、「鷹」だった。革命伝説という評がありました。 ぶためには、そうとう読まなければならない。知 訳の素晴らしさについて書いています。彼による 8 9